I.-晩餐-

私は全ての男たちの夢――

どんな男もその最も暗く甘い夢の中では、
自らの欲望に溺れ、抗うことすらできずに屈服する。
まだ髭も生えない少年からもう立ち上がることも覚束ない老人まで皆
私の姿に憧れ、切望し、持てる力の限りを注ぎこみ、
ついにはその命までもを捧げる。

それこそは私の悦び。
最後の瞬間のあの哀願するようなまなざし。
私を潤し、震わせ、満たしてくれる男たちの精気が。

今宵もまた、深く柔らかな闇の帳が下り
どこからともなく誘う声が聞こえる、彼方へと。
生暖かい夜風にうなじを撫で上げられ
もう、この湧き立つ凶暴な衝動を抑えることはできない。
切なく胸が疼き、尽きることのない激しい渇きが蘇る。
全てを吸い尽くさずにいられない、美しくも淫らな悪夢

それこそが私――。

夏の夕べ、気まぐれに山奥の修道院を訪れる。
月の光に照らされて銀色に光る長い髪をそよがせ
開いていた窓から室内に降り立つと、あどけない顔をした
年若い修道士が一人、その場に射すくめられたように立ち尽くしていた。

黒い蝙蝠の翼を広げ白い裸身を晒して一歩近寄れば、
頼みの綱の十字架は手から滑り落ち、祈りの文句は一言も思い出せない。
逃れようとしても腰が力を失い膝が動かず、なす術もなく床に崩れ落ちる。
可愛い哀れな獲物には、聖母の微笑みを浮かべてゆっくりと手を差し伸べ
初めはそっと、そして力を込めて震えおののく体を包み込んであげる。

女の柔らかく温かい肌とその肉の重み、初めての感触に息が詰まり、
すでに張りつめていた若芽は堪えきれず、頼りない呻き声と共にあえなく果ててしまった。
たとえ神に仕える身であろうとも、欲望に屈しひとたび堕ちればたわいもないもの。
まだ熟していない青い果実でも、食前酒がわりとしてはそう悪くない。
夜明けにはまだ時間がある。これからが贅沢な晩餐の始まりなのだから。

退屈しのぎに夜毎開かれる仮面舞踏会に顔を出すこともある。
優雅な貴婦人の装いでしなをつくればたちまち今夜の狩の標的が列をなす。
舞踏会の実態は退屈に倦む貴族たちの夜通し続く欲望の狂宴なのだ。

その男に出会ったのもそんな宴の一夜だった。
鍛え上げられた逞しい肉体には不釣合いなほど軽やかで優雅な身のこなしと
やや神経質な印象をも与える端正な顔立ち。海千山千の有力領主たちの中にあって
一際若く、自信と活力に満ち溢れた姿が目を引く。
そして洗練された紳士の姿の下に巧妙に隠された闇の匂いに一層興味を覚えたのだ。

*

蝋燭の炎が妖しく揺らめく大広間は、目を凝らせばそこかしこ
着飾った男女が思い思いの格好で絡み合い、猥らな律動に身を委ね貪りあっている。

広間の片隅では好事家の貴族たちが集い、地方の葡萄品種の評に花を咲かせているところだ。
「それで、目利きと評判のマキシモフ公の近頃のお薦めは何です?」
「私見だが、西の領地で育てた赤にかなうものはないだろう。
何より混じりけのない純粋な色が美しい。味わいも最高級のものだ。
熟成には十数年以上は必要だし手間もかかるが、その価値は十分にある。
飲み頃を見極めるのがなかなか難しいがね」
「その通り。ちょっと目を離した隙に害虫がつけば台無しですからなぁ」
誰かが入れた合いの手に下卑た笑い声が洩れ、貴族たちは訳知り顔で頷きあっている。

収穫を祝う祭りの夜には村の美しい娘が領主の城に捧げられる。
その年の極上の初物を、一番に味見するのは領主のみに許された特権なのだ。
一人が「だから苗木が幼いうちから囲うのが一番だ」などと得意げに講釈を始めた。

マキシモフ公と呼ばれた男はそんなやりとりに退屈の色を隠さずふと視線を逸らせた。
彼の城で行われる儀式が少々異質なものであることを知る者はない。
生身の肉体の交わりへの興味はすでに薄れて久しい彼の場合は
選び抜かれた最高の処女の血を絞りとり、文字通り味わうのだという。

「お詳しいのね。今度長熟ヴィンテージの試飲もお願いしたいわ」
何気なく差し挟んだ言葉に、男は鋭い視線を投げかけてきた。
広間の輪舞に加わらずこちらを眺めていた優美な淑女の姿を認めると
彼は切れ長の目を更に細め、何かを見抜いたようにすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「機会があれば喜んで」

デミトリ=マキシモフ――その名前には聞き覚えがあった。
愚かにも魔王ベリオールに逆らい、追放された男。匂い立つ闇の雰囲気もそうと知れば合点がいく。
気概ある野心家だとしても所詮無骨な成り上がりだろうと思っていた。
それが意外な風流気取りでこんなところで黄昏て、己が不遇を託つか。
挨拶代わりにちょっかいを出してみたくなる。

方々からかかる誘いの声と絡みつく欲望のまなざしを振り切って
赤い満月の光を浴びてテラスに佇んでいると、ついに狙い通りあの男が声をかけてきた。
「ワインがお好きなのですね」
「…美味しいものを極めてみたいだけなの、お酒に限らないけど」
「失礼ですが、以前どちらかでお目にかかったかな?」
「さあ。どうかしら。こういう場所にはよくいらっしゃるの?」
「いや、時にはこうして顔を出しておかないと、昼間は所用が多くて……。
我が城が主のいない幽霊屋敷などとまたあらぬ噂をたてられるのもかなわないのでね」
「まあ、領主様はいろいろ大変ですこと。ふふふ…聞いてもいいかしら、あの」
思わせぶりな調子と唇の動きを十分に意識しながら先手をとる。

「処女の生血が美容にいいという話は本当なのかしら。そうなら試してみたいんだけど。
……あなたならご存知でしょう?」
男は一瞬ぴくりと眉を顰めこちらを睨んだが、
「フフ今のままでも十分にお美しいのに…めったなことを仰いますな…」
と芝居がかった調子で軽く受け流すかに見えた。
「…ところで、好奇心旺盛なあなたなら先刻ご承知でしょうが…」
言葉を続けながら男は音もなく傍らに忍び寄り、急に声を潜めて耳元で囁く。
「聞くところによれば、悦楽の極まったサキュバスの流す涙は
処女の血よりも美味なのだとか……いつかはそれを味わってみたいと思っている」

あくまでクールな物腰を崩さず、わざとこちらを直視しないまま
穏やかな視線がうなじから剥き出しの肩、大きく開いた滑らかな背中を這い
豊かな腰の曲線へと流れるのを感じる。
自身の言葉の効果を冷静に計っているかのような態度が小憎らしい。
思わずそのグラスを握る指が肌の上を愛撫するさまを思い描く。
確かに悪くはなさそう…。
そしてその気取ったそぶりをいつまで続けられるか見届けるのも面白い。

沈黙を、つくった高笑いで打ち破る。
「ホホホ、さすがにお目が高いわ。そうね、あなたになら、できるのかしら……いいわ」
唇の端を歪め蟲惑的な笑みを浮かべるとゆっくりと白い首筋を見せつけながら振り返り
流し目をくれてやる。
「この私を楽しませてちょうだい。もう並みの男では満足できないの」
「これは身に余る光栄、ご期待に沿うようせいぜい努めよう」

吸血鬼の瞳が赤く光り、淑女にダンスを申し込む貴公子の所作で
淫魔の手をとるとその指に口付けた。


暗い廊下を滑るように移動し長椅子の置かれた小部屋へと導かれる。
長い間閉め切られていたような古い館独特の黴臭い空気。
毛足の長い絨毯に華奢な踵が吸い込まれていく。

振り向くとひとりでに厚い扉が閉まった。大広間のざわめきが遠くなり静寂が支配する。
魔物同士が向かい合い、互いの出方を伺うように視線を交わす。
数多の男を陥落させた笑顔で臨む。相手は臆することなく更に一歩踏み出した。
「それで、君の好きなお遊びは?」
「もちろん……真夜中のお楽しみよ」
男は白い歯を覗かせて快活に笑ってみせた。
その首筋を引き寄せ、舌先で吸血鬼の歯牙を探りあてるとそろそろとその根元を舐める。
男の手が両肩を抱く。あくまで優しく、唇を吸いながら更に情熱的に
抱きしめられるかに思えたが、そのまま掴まれた両腕がゆっくりと
しかし確たる力で背後に回されてゆく。
大きく胸を反らせ腰の位置で後ろ手に両手首を固定され自由を奪われた格好になった。
逃れようと思えばいつでも逃れられたし、強引な勢いは好ましく心地よかった。

豊かな乳房が更に突き出しドレスの中で窮屈そうに押しつぶされながら
半円を描いて盛り上がっている。
優雅な貴公子の姿をとりながら今やその本性を半ば露に鋭い牙を剥き出した男は
のしかかるように上体を折り曲げ、ゆっくりと唇を耳元に近づける。
「君の勇気には感服するよ。仰せの通りに……存分に愛でて差し上げよう」
仰向いた白い首筋の薄い皮膚の上を尖った牙先が撫でていく。
男の熱い吐息と鋭い牙の先がもたらす戦慄に感覚が研ぎ澄まされ、全身の毛穴が粟立った。

噛み破られることはないとわかっていても、熱くまた冷たくかすかな恐怖感にも似た
緊張が鳩尾に溜まり、そして同時に背筋を伝って痺れるような快感が上ってくる。
「…っん…」
体の奥深くからどくりと甘い脈動を感じて思わず喉の奥から呻き声が漏れてしまった。
わずかに身を捩ると、更にきつく抱き寄せられた腰に、誇示するように硬い楔が押し付けられる
……臍の上で熱く脈打つのさえ感じられるようだ。
微妙な力で首筋の皮膚を引っ掻いている牙の繊細な動きと荒々しい下肢の圧迫感に
追いたてられ、立っている床が足元から崩れるような甘美な感覚を味わう。

喉下に感じていた熱い息がふっと遠ざかった。
思わず目を開けると鼻先が触れ合うほど間近から見つめられていた。
「フフ…そんなに震えて…まるで怯えているようだ」
男の瞳は誘いをかけてきた時と変わらず冷静なままだった。
「…君には怖いものなどないのだろう?」
低い声にはからかいの色が含まれ、なだめるとも煽るともつかない調子で
冷たい指先が背骨に沿って上下する。

彼の虜となった乙女たちは皆、死の抱擁を受け入れながら恐怖のために震えていたのだろうか?
慇懃な愛撫に惑ううちに不遜な杭を身中深く打ち込まれ歓喜の血と涙を流す――己の運命を
悟りながら、なおその瞬間を待ち焦がれている、滑稽なほどに従順な子羊。
それは全てを委ねとどめを刺されるのを待つ生贄の男たちのあの恍惚とも重なる。
そう、真の快楽と恐怖の感覚とは近しいものなのだ、こんなにも――。
もうぞくぞくするような身震いと喉の奥にこみ上げる笑いを抑えることができない。

「あぁ…苦しいの、息が…このままじゃ胸が締め付けられて…服を脱いでも構わない?」
わざと甘くつくったつもりの声が予期しないほど濡れて響いた。
わずかな心の動揺を打ち消すように、媚びた視線を送り乳房を押し付けて厚い胸板にもたれかかる。
どくどくと胸に感じている熱い鼓動が自分のものなのか男のものなのかさえ定かではなくなった。

腕を掴んだまま、喉もとから舌が這う。ドレスの胸元が引き裂かれやわらかな白い乳房が露になった。
夜気に晒され、色素の薄い乳首がほのかに赤く充血して欲望を示すようにつんと上を向いて尖る。
乱れた呼吸をするたびに誘いかけるように弱く震えている。
きて……弄って。
男が、思いを見透かしたようにゆっくりと顔を近づけると、息を吹きかける。
次の瞬間、一気に容赦なく歯を立てた。
ッ…ぁん!
痛みと痺れに襲われ声にならない声をあげ、身を捩る。
こりっこりっと舌の上で転がしながらゆるく噛み同時に背中にまわした手が下へ降り
淑女の装いと嗜みを同時に引き剥がした。
むき出しになった尻の盛り上がりを撫で下ろしたかと思うと、その肉を掴んで左右に広げていく……。
熟れた欲望の匂いが漂い溢れ出て太股を濡らすほど滴っているのがわかる。
大きな手が後ろから脚の間に差し込まれ割れ目に添わせた指が探るようにぬるぬると滑りながら
前後に動く。その動きにぽってりとした肉厚の花弁が左右に拡げられ男の指を挟みこんでいく。
指先が、すでに充血してぷっくりと膨らんだ敏感な部分に突き当たった。
秘めた本性を暴き立てるように爪先でくりくりと刺激される。
「…ぁあ…ッ」
両腕を太い頸にまわし胸を擦り付けるようにして、一層大きく身を捩る。
焦らすことを愉しむような微妙な関節の動き。
途切れ途切れの吐息に、乱れた髪の一筋が揺れるのを見つめながら
その一点の感覚に吸い込まれそうになるのを堪える……。
もどかしい思いを訴えるように体重を男の腕に掛けるとますます指が秘所に食い込んでいく。
脚を大きく開き手のひらに跨るような格好のまま知らずしらず腰を前後に揺すっていた。
はやく……!呑み込んで絞りつくしてしまいたい。
サキュバスの本能が熱く滾る。


優美でいて傲岸な、紳士の姿をした闇の怪物の腕の中で次第に渇きが募った。
腰の動きと呼吸にあわせてたわむ胸の谷間に汗の滴が流れる。

「く…ふッ…、ハ…っ…っぁ…」
断続的に浮かび上がる愉楽の泡沫をあまさず掴み取る。
内なる昂ぶりを潜めるように声を抑え密やかに味わったつもりだったが
溢れる蜜の量と内腿のひくつきで悟られているに違いなかった。

構いはしない。
膝を曲げ足首を男の太股に沿わせながら片脚を高く持ち上げて腰に絡める。
「ねぇ…もう、これ以上…」
待てないとばかりにその姿勢のままで硬く反り返ったものに当てつけるように身をくねらせると
爪先に引っかかって揺れていた繻子の靴が男の背後に転がって落ちた。
彼はそんな様子を薄笑いを浮かべて見下ろしている。相変わらず余裕の構えだが
その赤い瞳の奥に今は情欲の火種が宿り、妖しくくすぶるのが覗える。

「…淫魔めが……。どうしても私を罠にかけなければ気が済まぬか?」
言葉とは裏腹にその声は今までになく優しく響いた。
「下種どもの盛りあいなぞ今更興味は持てないが、君の魅力は認めよう。
刹那の闇の幻にしておくには惜しい……ふふふ、本来なら我が永遠の命を与えたいところなのだがな。
今宵は君の望む形でお相手しようか…その美しさに敬意を表して」
腰に絡まった脚をあの優雅な動きで太股から膝へと撫で上げる。
足首を背後で掴み、腰から外して持ちなおす。
大きく曝け出された部分に風を感じた。
そこに一瞥をくれると、高く上げた膝を片腕にかけたまま吸血鬼がその欲動を現す。
熱を持った尖端がくちづけを交わすようにくちゅっと音を立てて一度触れ合った。

余韻を味わう間もなく、激情が襲いかかる。
体を預けた不安定な姿勢のまま、一息に刺し貫かれた。
「うッ…ぁ、んんッ」
瞬間息が詰まり、唇の端から唾液が零れ落ちる。衝撃と圧力に耐え肩で大きく息をする。
霞んだ視界が次第に戻ってくる……仰け反って見開いた瞳を弄るように見下ろしている顔。
闇の主に相応しい邪悪な笑みだ。

「あぁ……、っん…」
静かな水面にさざ波が立つように張り詰めた内部がざわめき始める。
襞の全てが、別の意思を持った生き物のように涎をたらしながら嬉々としてしゃぶりつく。
素晴らしいわ…これで、もうあまり生身の肉体に興味がないそぶりでいるなんて……。
夢中になってその感触を追い求める。
吸血鬼の顔にわずかに狼狽の色が浮かんだ。
そのままがっちりと組み合い互いに微動だにしない。男の胸に顔を埋めて内なる感覚に浸っていると
筋肉の厚い密な層の中で、あらゆる秘蜜を啜り尽くしたこの魔物の血が温度を上げ沸きたつのがわかる。

内襞のさざめきが効いているのか、彼は顎をあげて息をつくと、
囲みを突破するかのように敢然と動きに転じた。
微かな光がその身を包み躍動する体にあわせて煙のように揺らめく。
太い首筋を撫で逆立つ髪を掴んで、喘いだ。
「いい……、素敵よ……ああ、もっと…、もっとあなたを味わわせて」

波打ち際の滴が泡立ち水音を立てる。
結ばれた部分を密着させたまま体全体をあやすように、
また腰を引いて浅く擦りあげるように、と揺さぶり責めたてられると
稲妻のように閃きながら快楽が極まり、きゅっと虚空に収束していく。
動きに合わせてひきずられる奥深いところからどろどろに蕩けていくような感覚。
これほどまでとは予期していなかった――その律動に揺るがされていくのは肉体ばかりではない。
未知の深淵まで喰い破られ、拓かれるそばから侵されていく。

男の額には汗が浮かび、荒い呼吸が室内に響いていた。
激しく熱い気の高まりに共鳴するように、とめどもなく悦楽が溢れだす。
「あぁ…っ、…ん、ん、っ、っ、そう…、イイわ……、ぁ、きて、はッ、あぁ…」
自由を委ねた状態でなされるがまま、限界を超えた激しい突き上げに酔いしれる。
意識が遠のきそうになる度、もう二度と放すまいとするようきっちりと掴みなおす。
それは決して力を失うことなく一層獰猛さを増して応えた。

何度絶頂を味わっても、体の奥から湧き出る尽きせぬ思いが
更なる境地を求めてもがくのがわかる。
……もう、逃がさない。
このままずっと。ずっと。味わっていたい。胸躍り燃え上がるこの瞬間だけを。

繋がったまま、肩で大きく息をしている男の耳朶に噛み付くと
く…ふっ、とその姿に似つかぬ可愛らしい声をあげて反応した。耳元で囁きかける。
「はぁ…ア……ふ…感じる…。最高よ…」
「…だ…ろうな……」
「…ふふ、感じるのよ…あなたが、震えているのを。そう、まるで怯えているみたいに」
「な…んだと?」
「私の中で、ぴくぴくしてる…ねえ、わかるでしょう。こんなに…」
捻るように絞りあげる。
「ぐ…!」
吸血鬼の端正な顔が歪んだ。同時にその部分に滾る血潮が逆巻き、さらに膨らみを増す。
「あぁ…なんて、なんて素敵なの……。ね、いっそこのまま……私のものにならない?」
そう。昇りつめて、もっと高みにまで――
そうして、永遠にも優る、
刹那の夢に堕ちる。
その時確かに感じた――この手に収めた彼の本能が諾うのを。

どんな男でも己の欲望に負ける時は脆い。誇り高い者ほどその終わりはあっけなく無残なものだ。
「……あなたの心の望むままに従ったらいいのよ。まだ未練があるのかしら? この世に……」
恐れなくていい。そのまま素直に全てを委ねれば――逝けるわ。
奪ってあげる。あなたの全てを……!

「…くッ――未練だと?」
唸り声を上げ、なおも屈することのない意気を示して漲る。
あと一息、あと少し、気合をこめれば奪い尽くせると思ったが、その少しが叶わない。

躊躇した一瞬のうちに、再び力を得た吸血鬼が自分の意志で絶頂の淵から退いた。
「――あッ」
体の奥深くで最後まで膨張を続けていた楔が急激に引き抜かれ、目も眩むような強い刺激をもたらす。
不意をつかれよろめいた体が、再度宙でしっかりと受け止められた。
その力は全身を引き裂かれそうな恐ろしい勢いだったが
彼もまた均衡を失い崩れかける身と心とを必死で踏みとどめた反動なのだとわかった。
縺れあったまま長椅子に倒れこむ。
心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響いている。
――あるいは、未練があるのはこの私のほうだったのか?
彼が言った通り、確かに全てを一夜の幻にするには惜しい、とでも……?
ふふ、まさか…。

どちらも相手を見くびっていたことに気がついていた。
仰向けに横たわった吸血鬼の腹の上に遠慮なく身を伸ばしたままで
呼吸を整えると、高揚した気分から浮ついた言葉が口をついて出る。
まるで垣間見た宿命から目を逸らすかのように。
「不思議だわ…私の弱点を知り尽くしたよう。素敵だったわ、本当に」
「この淫魔めがっ…!」
天井を見据えた吸血鬼が掠れた声で呪いの言葉を吐きだす。
意に介さず、半身を起こして続けた。
「ふふ、また会いましょうよ。次の満月の夜はどう? よろしければ私の寝室にお招きするわ。
広いベッドはお気に召さないのかしら。ベリオールの居城はご存知でしょう? マキシモフ公」
その名を聞くと彼は握り締めていた長い髪から手を離した。
「ベリオール…ふっ…なるほどな。慈悲を得たわけか? なぜとどめを刺さなかった?」
「なぜかしら。あなたはどうして。処女以外は用無し?」

乱れた淫魔の髪を撫で付けながら、穏やかな紳士の物腰に戻って言う。
「…言っただろう、君の涙を味わいたいと。次の機会があれば、
君が血の儀式に怯えて泣くようなタマじゃないということは心しておこう」
「また会えるのかしら? 近いうちに」
「どうやら避けられぬ因果らしいな」
互いに理解していた。その因縁の始まりを。
たとえ望まずとも、このままで終わるはずはなかった。

「名前を聞いていなかった」
「すぐに知ることになるのでしょうけど。そういうめぐり合わせなら」
唇を近づけて名を告げ、そのわずかな隙に盗み取った最後のくちづけを覚えている。
彼は初めておとなしく目を閉じた。微かに震える熱い舌。すぐにでもまた燃え上がりそうな…。
背中にまわされた腕に力がこもる。
それがキスを返すためだったのかどうか、知る術はない。
反射的にあの牙を避けて、退いてしまったから。
――そして今もなお、束の間の暗闇の幻影のまま、夜に君臨している。


あの一夜にどちらかが欲望のままに
その血その精を吸い尽くしていたならばこの奇妙な因縁も消えていたのだろうか。

今にして思えば、遠い昔から心のどこかで
そんな瞬間を私は待ち続けているのに違いない。
心蕩けるような戦慄に満たされ、思わず涙を零す法悦の極みを。

今宵彼方で同じ月を眺めているだろう、愛しき仇敵に呼びかける。
魔力を強め、全てを手にすることさえ不可能ではない吸血鬼に。
あなたが真に欲し、求め、勝ち得たいと願っているのは……魔王の座?
それとも
――この私?
あとどれだけの時と言い訳が必要なのか。その心が秘めた願いを認めるまでに。

永遠は、私には長すぎる。もとより答えを待つつもりはない。
闇より深き至上の夢――私の魅力についに屈しない男など一人とていなかったのだから。




2005.09

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